「仏滅」とは、中国の6曜の一つで、縁起かつぎの人には、余り好まれない。
本来は「物滅」と表記し、“すべての物が滅び、新しく始まる”意のようだ。
今回、「お盆」を前にして、我が家のお墓は勿論の事、知人、親戚から依頼されて、4ヶ所の「墓掃除」に出向いた。
そのなかで、墓守りの世相が、大きく変わって来ているのを感じた。
依頼された1年振りの清掃では、墓地には草が生え、道中の道並みには、手に負えない程の雑木が生えて、見る陰がない。
毎年の事なので、誰かが片付けをしなくてはならないので、私が“生きている限りはやろう!”と気合いを入れた。
清掃で中休みをしていると、フト子供のころの墓掃除を思い出した。
大抵は、姉と二人ですることが多かったが、主には、木の落ち葉などの掃き掃除位だった。
どこの家の墓掃除も、大抵が子供の当番だった。
競うようにしていた。
生家の墓だったから、3~4代位前の墓は、誰のものかわかり、家庭での先祖の話題にも、大体わかり、話しについて行けた。
“叔父を頼りに、京都に出向き、肺炎をわずらった大伯母”
“土地を開墾し、財をためて、家を新築した祖父”
7~8基有る墓所の話題には、子供の自分にも関心がつよく、大人の話しには、耳を傾けた。
その度に、自分がいく世代に渡って、命のバトンを引き継いでいる自覚が、自然に芽生えた気がする。
ところが、今は永代墓が主流を占めて、墓標に表記されていても、立体感がなく、説明されても頭は素通りする。
古びた墓石に触って、話しかけるところに、意味があった。
親戚の依頼の墓掃除は、後継者がいないのでやむ無く、私がこのところ、毎年している。
20軒位の集団墓地の一角にある叔父の家の墓。
月始めだったせいもあるが、行ってみると、辺りには墓じまいしたところ、寄せ墓になったところ等に、大草が生えて、見られた様でない。
墓所にいく小道も、落ち葉がかさなり、葛が生えて踏み場がない。
覚悟を決めて、「枯れ葉剤」を散布した。
1週間後に、再び訪ね再び、草を刈り取った次第。
他所様の墓掃除もされ、本来の姿を取り戻し、ホッとした。
お盆の初日に、お墓参りにいくと、半数がお参りできていない所も目立つ。
何かしら、時代が大きく様変わり果てて来ている。
死者の霊を弔う習慣が、やや廃れて来ているのではなかろうか。
我が家の「永代墓」は5年前に新調した。
墓碑銘には、新しく義父母の戒名が刻んである。
いずれ、ここに入ることになるのかと、神妙になった。
今回の「墓掃除」を通して、家族は勿論のこと、親族、友人との関わりがひとしきり、思い出された。
悔いのない生き方をしなくてはならない。
“永遠の生命を幸せに生きる”生き方を、心掛けたい!
「仏滅」に対峙して、出来るだけ、我が身を守っていかなくてはならない!

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